音楽家の素顔(ポートレイト)

音楽ライター室田尚子と写真家伊藤竜太が、毎回1組の日本人クラシック・アーティストにインタビュー。写真と文章で、その素顔に迫ります。

第10回 道なき道をゆく、現代音楽のスペシャリスト 松平敬(バリトン)

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 去る2月、新国立劇場で行われた西村朗作曲の創作委嘱オペラ『紫苑物語』の世界初演で、平太役をダブルキャストで演じ絶大な評価を得たバリトンの松平敬(まつだいら・たかし)さん。松平さんは、現代音楽のスペシャリストとして100曲以上の作品を初演しているほか、すでに11回を数えるチューバの橋本晋哉さんとの“低音デュオ”コンサートなど、独自の企画を次々に繰り出す日本人歌手としては非常に稀有な存在だ。

私が初めて「松平敬」という歌手の存在を知ったのは、2012年にサントリー芸術財団サマーフェスティバルでクセナキスの『オレステイア』を歌った時だ。頭に東京スカイツリーのフィギュアを乗っけた出で立ちで(!)、3オクターヴに渡る音域を駆使した超絶歌唱に度肝を抜かれたのだ。その後、東京23区の区歌・愛唱歌を集めたリサイタルという、これまた誰も思いつかないユニークな企画に足を運びながら、そのユニークさはいったいどこから生まれてくるのかがどうしても知りたくなった。

 

 

“現代音楽が怖かった”少年時代

 

 小学校4、5年生の頃からクラシック音楽に興味を持ち始めたという松平さんが、初めて「現代音楽」に出会ったのは、近藤譲さんが案内役を務める NHK-FM現代の音楽」だったという。

 

 「はじめは、何だこれは?!と、ものすごい拒絶感を抱きました。中学3年生ぐらいから音大へ進みたいと思うようになり、作曲にも興味があったんですが、作曲家になるとあの“現代音楽”を作らなければならないではと思って作曲科に進むのを辞めたぐらいです。でも、一方で、なぜ自分はこんなに現代音楽がイヤなのか、イヤな響きだとは思うけれど、そこには何かがあるのかもしれない、とも思い始めたんです。」

 

 そこで出会ったのが、諸井誠著『現代音楽は怖くない ―マーラーからメシアンまで』(1985年、講談社)。まさに「現代音楽が怖かった」松平少年にとってはうってつけの本で、やがて拒絶感は興味へと変わり、わからなかった現代音楽がだんだんわかっていくうちに、高校を卒業する頃には現代音楽がかなり好きになっていったという。そして、東京藝術大学の声楽科に入学すると、大学図書館で楽譜やCDを借り出しては様々な作品に触れる日々が始まる。

 

 「川島素晴など作曲科の友人もたくさんできましたが、反面、歌の分野で現代音楽を専門的に演奏する日本人はほとんどいませんでしたし、大学に専門の先生がいたわけではないので、どうやって現代音楽の世界に入っていけばいいのか、まったくわかりませんでした。」

 

 卒業後は藝大の大学院に進学、修士論文シェーンベルクの歌曲をテーマに書いたが、大学院修了後も進むべき道がみつからないままだったという。

 

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シュトックハウゼンとの出会い、そして

 

 そんな松平さんにとって転機となったのは、2000年に初めて参加した作曲家シュトックハウゼンの講習会である。

 

 「“シュトックハウゼン音楽情報”というウェブサイトを運営していた山下修司さんという人が、僕に猛烈に受講を勧めてくれたんです。準備期間もあまりなくて、語学の不安もあったんですが、実際に受講してみて大きな衝撃を受けました。講習会では毎年受講生によるコンサートがあり、この時は出演することはできなかったんですが、僕を指導してくれたニコラス・イシャーウッドというバス歌手が、1年間自分と一緒に準備をすれば来年は出られるからと励ましてくれ、1年間様々なやり取りをして臨みました。そして翌2001年の講習会でコンサートに出演することができ、シュトックハウゼンの前で彼の作品『ティアクライス』を歌ったんです。」

 

 この時のことを「人生で一番緊張した経験」と松平さんは語るが、この経験が松平さんを現代音楽への道へと強く押し出すことになる。

 

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その後もシュトックハウゼンが来日公演を行なった2005年を除いて2007年まで毎年講習会に参加。シュトックハウゼンによる自作のアナリーゼの授業を受けたり、前述のイシャーウッドから現代声楽曲の演奏の方法を体系立てて指導してもらったり、ということを積み重ねていく松平さん。2004年には、大学時代の友人でもあった作曲家の川島素晴さんが主宰する団体Next Mushroom Promotionが企画したクセナキス『オレステイア』の日本初演に出演。大阪で行われたこの公演がきっかけとなり、川島さんと松平さんの共同企画という形で東京の北とぴあでリサイタルを開催し、その後ユニットを組むことになるトランペットの曽我部清典さんと共演したり、そのリサイタルが『音楽の友』で畑中良輔氏から高く評価されたり、と、松平さんが現代音楽の世界で活躍をしていく大きなステップとなった。

 

 

自分にしかできないことを

 

 2019年2月には、シュトックハウゼンの全作品と生涯を解説した、日本初のシュトックハウゼン研究書である『シュトックハウゼンのすべて』をアルテスパブリッシングより出版した松平さんは、誰もが認める“現代音楽のスペシャリスト”である。彼のアイデア、そこへのアプローチの仕方、結果として生み出されたパフォーマンス、そのどれもが “松平印”であり、一度でも彼のパフォーマンスに接したことのある人ならば、松平敬という音楽家が「余人をもって代え難い存在」であることは納得できると思う。

 

 「非常にマイナーでお金にならない道を歩んでいますが(笑)、これは自分にしかできない、という自信はあります。もともと人がやらないものをやってやろうと考えていたわけではなく、例えばモーツァルトシューベルトならば僕よりもずっと上手く歌える人はたくさんいる。でも、自分に任せてもらえれば誰よりも上手くやれるという音楽を選んできた結果としての今があるのだと思います。」

 

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 「自分にしかできないこと」を真摯に追求してきた結果、今、松平さんの元には新作オペラの出演依頼が多く寄せられている。昨年だけでも野平一郎作曲『亡命』や松平頼暁作曲『The Provocators〜挑戦者たち』などの話題作に出演。その流れの線上に、新国『紫苑物語』があったともいえそうだ。

 

 「“新しい作品を歌う”というのは自分が長くやってきた得意な分野なので、そういう分野で新国立劇場に声をかけていただいたことは、今までの活動が認められたように感じられとても嬉しかったです。新作オペラは、日本ではそもそも上演の機会が少ないので、作曲家にノウハウが蓄積されていないんですね。その点、『紫苑物語』は、ヨーロッパの劇場で経験を積まれた指揮者の大野和士さんが作曲家の西村朗さんと一緒にアイデアを出し合って作り上げたこともあり、現場の経験が活かされている。こういう作品がもっとどんどん出てくれば、日本の新しいオペラの世界が拓けてくるのではないかと思います。」

 

 最後に松平さんに「今後、やってみたい企画とかはありますか」とたずねると、しばし沈黙の後こんな答えが返ってきた。

 

 「今やっていることをこれからも続けていくということがいちばん重要だと考えています。まだまだ委嘱をお願いできていない作曲家もいますし、既存の曲でも楽譜は買ったものの上演できていないものもたくさんある。そういう作品を演奏せずに死にたくないな、と(笑)」

 

 言葉を選び、訥々と語る松平さんの表情と声からは、道なき道を歩み続ける音楽家の魂の強さを感じたのである。

 

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松平敬(まつだいら たかし) Takashi Matsudaira

 

愛媛県宇和島市に生まれる。東京藝術大学卒業、同大学院修了。現代声楽曲のスペシャリストとして、湯浅譲二松平頼暁高橋悠治池辺晋一郎西村朗近藤譲三輪眞弘など100曲以上の作品を初演する。また、9度に及ぶシュトックハウゼン講習会参加の経験を生かし、『空を私は散歩する』、『歴年』などシュトックハウゼンの演奏至難な大作の日本初演に携わる。全曲無伴奏独唱曲によるリサイタル、東京23区の区歌・愛唱歌を網羅する演奏会など、独創的な企画も話題を呼ぶ。2012年のサントリー芸術財団サマーフェスティバル、クセナキス『オレステイア』公演では、3オクターヴの音域を駆使した壮絶な歌唱が、新聞各紙などから高い評価を得た。CD録音においても、一人の声の多重録音を駆使した『MONO=POLI』(平成22年度文化庁芸術祭レコード部門優秀賞)及び『うたかた』、一柳慧、ケージなど、通常の五線譜を使用しない作品ばかりを集めた『エクステンデッド・ヴォイセス』と、個性的なアルバムを発表。チューバの橋本晋哉氏とのユニット「低音デュオ」名義でも2枚のCD、『ROTATION』、『双子素数』(『レコード芸術』準特選盤)をリリース。現在、聖徳大学文教大学講師、日本声楽アカデミー会員。低音デュオ、双子座三重奏団メンバー。

松平 敬 website | Takashi Matsudaira website

 

【松平敬さん 出演情報】

 

◇日本音楽の流れⅢ ― 三味線 ―

日時:2019年6月8日(土)14:00

会場:国立劇場小劇場

 新作委嘱初演 作曲=桑原ゆう
「降達小歌による 夢のうき世の、うき世の夢の」
 歌  Ⅰ=善竹富太郎・大藏基誠
 歌  Ⅱ=岡村慎太郎・田中奈央一
 歌  Ⅲ=松平敬・金沢青児
 三味線=本條秀慈郎

 
◇松平 敬レクチャートーク「大阪万博のシュトックハウゼン」+「シュピラール」実演

日時:2019年6月21日(金)19:00

会場:MEDIA SHOP(京都)

 松平 敬(演奏とレクチャー)
 檜垣智也(サウンド・プロジェクション)


◇福士則夫作品展

日時:2019年6月25日(火)19:00

会場:東京文化会館小ホール

 ODE=I (1974)
 松平敬(バリトン)、佐藤紀雄(ギター)、石田湧次(パーカッション)

 

川島素晴 works vol.3 by 双子座三重奏団

日時:2019年9月5日(木)19:00

会場:豊洲シビックセンターホール

 「双子座三重奏団」曽我部清典(トランペット)、中川俊郎(ピアノ)、松平敬(バリトン/パフォーマンス)
 川島素晴(指揮/パフォーマンス)


◇松平敬&工藤あかね Voice Duo(仮題・詳細未定)

日時:2020年1月12日(日)

会場:近江楽堂

 高橋悠治委嘱新作ほか


◇低音デュオ第12回演奏会(詳細未定)

日時:2020年4月22日(水)

会場:杉並公会堂小ホール

 松平敬(バリトン)、橋本晋哉(チューバ)