音楽家の素顔(ポートレイト)

音楽ライター室田尚子と写真家伊藤竜太が、毎回1組の日本人クラシック・アーティストにインタビュー。写真と文章で、その素顔に迫ります。

第7回 白馬に乗ってやってきた、とびきり美しいオペラ歌手 鳥木弥生(メゾソプラノ)

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 去る6月に豊洲シビックセンターホールで行われた「6人のメゾソプラノたち」と題するコンサートは、メゾソプラノの歌う役柄の多彩さ、幅広さに加えて、メゾソプラノという声種を持つ歌い手たちがいかに演技派ぞろいで、人を楽しませることに長けているのかを存分に教えてくれる企画だった。その中でも、とりわけ陽性の魅力を放っていたのが、鳥木弥生さんである。藤原歌劇団の舞台で知る人も多い鳥木さんだが、そのキャリアのスタートはヨーロッパであり、比較的長く彼の地を活動の拠点としていたこともあって、「日本の歌い手」という枠をはみ出している印象も強い。「実力派」「華やかな美貌」など、様々な形容詞がつく鳥木さんの素顔はいかに。

 

勉強嫌いの本好き少女

 

 「私は石川県の七尾市出身で、姉が2人います。この姉たちがものすごく勉強ができる人たちで、それに対して私は勉強が大嫌い。というか、正確には “先生”という人種が嫌いだったんです。例えば何かしなさいと言われても“やる理由がわからないのでやりません!”って言って、それでいつも悪い成績をつけられていました。ひとりひとり違うのに何でみんなで同じことをしなくちゃいけないんだって反発していました」

 すでにして、この少女時代である。画一的な押し付け教育に反発する鳥木さんだが、しかし一方で大の本好きでもあった。かたわらにはいつも本があった、という少女時代に抱いた夢は…

 「魔女です」

 おお!さすが(笑)考えてみればオペラ歌手も「魔女」みたいなものかも、というのはおいておくとして、魔女に関する本を読み漁りながら、他の女の子と明らかに違うところは他にもあった。

 「女の子ってよく“白馬に乗った王子様に迎えに来てほしい”とか言うじゃないですか。私は“白馬に乗って剣を携えた王子様になりたい”って思ってました。だから、竹を削って剣を作って、親には“馬を買ってくれ”とねだったりしていました」

 実はこの、「女の子ってこうだよね」という世間の「押し付け」に疑問を持つ姿勢は今でも変わっていない。もう少しきちんとした言い方をするなら、「既存のジェンダー規範」に対する懐疑。それが魔女や王子になりたかった少女・鳥木弥生をオペラ歌手の道へと導いていくことになる。

 

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恩師、エレナ・オブラスツォワのひとこと

 

 「勉強をしたくなくて」石川県で唯一音楽専攻があった県立高校の声楽専攻へと進んだ鳥木さん。その後は、やはり「受験勉強をしたくなくて」武蔵野音楽大学声楽科へと進学。転機はそこで訪れた。武蔵野音大で教えていた往年の名メゾソプラノ、エレナ・オブラスツォワに見出されるのだ。

 「江古田の街を歩いていたらスカウトされたんです(笑)それで歌を聞いてもらって、“あなたは私になる。私のすべてを教える”と言われました。何でしょうね…私は、歌が上手いからじゃなくて性格がいいから気に入られたんだって言ってるんですけれど(笑)」

 もちろん、鳥木さんの歌が下手だったわけはないのだが、オブラスツォワが彼女のキャラクター、というか人間力のようなものを見抜いたことは間違いない。彼女は武蔵野音大を卒業した鳥木さんを、ユーゴ(現セルビア)やロシアなど、東欧各国のツアーに連れ出していく。当時の東欧といえば共産主義は崩壊したとはいっても、まだまだ経済的にも体制的にも厳しい時代。若い日本人女性がホイホイと行っても、生活していけるかどうかすら危うい面もあった。事実、その後オブラスツォワがスカウトした日本人学生は、ほとんどついていくのを辞退していたのだという。鳥木さんも、生活面ではずいぶん苦労したようだが、それでも必死で食らいついてツアーを周り、各地で歌った。だから、「歌手・鳥木弥生」のデビューはセルビアやロシア、ということになる。

 日本を出て行くというとき、オブラスツォワは鳥木さんの両親の元を訪れ、「この子は絶対に世界に出るから」と説得したのだという。

 「その時オブラスツォワは、“全部で世界一になることはできないけれど、何かの役では世界一上手に歌えるようになる”と言ったんです。彼女の予想では、それは『イル・トロヴァトーレ』でした。それと『ウェルテル』のシャルロット」

 シャルロットは、その後フィレンツェで師事したフェドーラ・バルビエリも太鼓判を押した役だ。「あなたはどこかの瞬間で、世界一美しい『トロヴァトーレ』と『ウェルテル』を歌えるはず」というオブラスツォワのひとことが、鳥木さんを、「オペラ歌手」として生きるステージへと押し上げた。

 

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オペラ歌手が天職だと思えた理由

 

 フィレンツェに足かけ7年、その後文化庁在外派遣研修でパリに2年。その間、ヨーロッパ各地でオペラの舞台やコンサートに出演し、華々しい活躍を重ねた鳥木さん。生涯のパートナーと出会って子供を授かったために、2009年に臨月で(!)帰国するが、その後は押しも押されもせぬ第一線の歌手として活躍を続けている。そんな鳥木さんに、「オペラ歌手でやっていこう、と決意したのはいつか」とたずねたら、こんな答えが返ってきた。

 「小さい頃から男尊女卑の思想が許せませんでした。女性だけが“女流作家”“女流◯◯”と言われる。どうしてだ、って憤ってきた。ところがふと、そういえばオペラ歌手のことは“女流歌手”とは言わないな、と気づいたんです。オペラには、すでに作品の中に“女声”で歌うべき役柄が存在している。私はその役柄を“女性として”歌えばいい。オペラ歌手は、女性として、女性にしかできないことを自然にできるんだ…そう気づいた時、これは私の天職かもしれないと思いました」

 魔女に憧れ、王子様になろうとした少女は、「女だから」と役割を外から押し付けられる社会に疑問を抱き続けた。一方で、決して「女であること」を否定もしなかった。そうしてたどり着いたのが、「女である自分がもっとも自然に生きることのできる」オペラ歌手という舞台だったのだ。

 

メゾソプラノ「地位向上」の秘策?!

 

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 以前にもどこかで書いたが、私自身はメゾソプラノバリトンヴィオラといった、中低音域の音色の方が、極端に高い音や低い音よりも好きだ。だが世間ではどうしても「主役はソプラノ」という感覚が染み付いている。まさに「ソプラノ1番、テノール2番」(メゾソプラノ地位向上委員会の主題歌の歌詞より)なのだ。だが、鳥木さんがいう「メゾソプラノの地位向上」とは、「ソプラノよりメゾの方が偉い」というような単純なことではない。

 「メゾはソプラノよりずっと役のバリエーションが広い。小間使い、おばあちゃん、ちょっとクセのある人…プリマ以外何でも演る。ただ、だからこそ、メゾはキャラクター勝負みたいに考えられているのも事実で、私は、メゾも非常に高い技術を持っているんだということをみせていきたいと考えているんです。本当は叙情的な曲から激しい曲まで色々あるし、それらを歌い分ける技術も持っている。そういうメゾの歌をみせる場を増やしていきたい、というのが『メゾソプラノ地位向上委員会』の使命だと考えています。」

 確かに、先の豊洲のコンサートでは、本当に様々なメゾソプラノの役柄が聴けたし、また6人の歌い手たちも実に個性豊か。決して「メゾ」と一口にくくれないほどの多彩さだった。どうしてもメゾというと「カルメン」一辺倒になりがちだが、実は多彩なメゾの世界を垣間見ることのできる場が増えれば、メゾソプラノの「地位」は「向上」するにちがいない。

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 「それに、ソプラノが歌っている役の中には、実はメゾが歌えるものがいっぱいあるんです。ミカエラ(『カルメン』)やムゼッタ(『ラ・ボエーム』)なんか、これからちょっとずつ奪っていこうかと…(笑)」

 真に技術のあるメゾソプラノ歌手をもってすれば、音域さえ合えばこうした役を歌うことはそれほど難しくないのかもしれない。「えー、でもミカエラは清純な乙女でしょ?メゾだとちょっと強すぎない?」と思ったあなた。それは、これまで私たちはそういうミカエラしかみてこなかったというだけだ。もっとも重要なのは、「その人の声の質にキャラクターがあっているかどうか」ということである(ソプラノ歌手でも、ただ高い音が出るからというだけの理由で声質にまったく合っていない役を歌って声を壊してしまうケースがある)。

 「かつてジェシー・ノーマンはこう言いました、“声種というのは想像力の欠如です”。みんなが持っている、“このキャラクターはこういうもの”という固定したイメージをどんどん壊していけたら最高です」

 古臭い規範に敢然と反旗をひるがえす「白馬に乗ったメゾソプラノ」の姿が、あなたにも見えるだろうか。

 

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鳥木弥生(とりき やよい) Yayoi Toriki

ロシア、セルヴィアなど東欧各地におけるリサイタルで活動を開始。
第1回E.オブラスツォワ国際コンクールに入賞し、マリインスキー歌劇場において、G.ノセダ指揮同劇場管弦楽団と共演。
日本では岩城宏之指揮、オーケストラ・アンサンブル金沢の新人登竜門コンサートを経て同オーケストラ定期公演、東京公演においてファリャ「恋は魔術師」でデビュー。
フィレンツェ市立歌劇場オペラスタジオ、及びF.バルビエーリ、W.マッテウッツィの元で研鑽を積み、ヨーロッパでもブッセート「ヴェルディの声」など、数々の国際コンクールに入選、入賞。
02年フィレンツェ市立歌劇場公演「ジャンニ・スキッキ」(R.パネライ主演)ツィータでオペラデビューの後、ルッカ、ピストイアでのプッチーニ「外套」フルーゴラ、クレルモン=フェランでのビゼー「ジャミレ」主演、バルセロナ他でのプッチーニ蝶々夫人」スズキなど、各地でオペラ公演やコンサートに多数出演し現地メディアでも好評を得る。
07年度文化庁派遣でパリへ。エコールノルマル音楽院オペラ芸術科のディプロマを最高位で取得。また、名指導者として知られるコレペティトゥール、J.レイスよりフランスオペラを中心としたレパートリーを教授される。
レオンカヴァッロ「ラ・ボエーム」ムゼッタ、ビゼーカルメン」題名役、プーランクカルメル会修道女の対話」マリー、ヴェルディイル・トロヴァトーレ」アズチェーナ、ベッリーニ「カプレーティ家とモンテッキ家」ロメオなどのオペラに加え、ベートーヴェン「第九」「荘厳ミサ」、 ストラヴィンスキー「プルチネッラ」、フォーレペレアスとメリザンド」、ヴェルディ「レクイエム」などオラトリオやコンサートのレパートリーでも、数々の著名な指揮者、オーケストラとの共演で活躍している。
笈田ヨシ演出「蝶々夫人」「アルベルト・ゼッダスペシャルコンサート」など、出演舞台の放映も多数。
2015年「岩城宏之音楽賞」受賞。
http://yayoitoriki-mezzosoprano.hatenadiary.jp

 

【鳥木弥生さん 出演情報】

 

◇「まだ何も決まってないコンサート」

日時:2018年11月10日(土)14:00開演

会場:国分寺市いずみホール

 

◇「銀座オペラ・ガラコンサート」

日時:2018年11月16日(金)19:00開演

会場:ヤマハホール

 

◇G.ヴェルディ『ファルスタッフ』

日時:2018年12月6日(木)・9日(日)・12日(水)・15日(土)

会場:新国立劇場