「日本を代表するソプラノ」のひとり、幸田浩子さん。その名前は、クラシック・ファンはもちろんのこと、広くお茶の間でも知られている。それは幸田さんが、NHK-FM「気ままにクラシック」やBSフジ「レシピ・アン」などテレビやラジオに出演する機会が多いことも関係しているだろう。また、クラシックの歌手としては、CDのリリースも多く、彼女の人気の高さがうかがえる。
お客様に幸せな気持ちで帰っていただきたい
幸田さんの歌声を聴いていると、優しく包み込まれるような気持ちになる、という人は多い。それは何より幸田さん自身が、「どうしたらお客様に喜んでもらえるか」ということを第一に考える歌手であるからだ。
「私はとても単純な舞台人なので、音楽が自分の体の中を通ってお客様に届いていく、それだけでもう幸せを感じます。だからお客様にも幸せになっていただきたい。オペラを観た方が今よりもっと心が柔らかくなるような、そんな気持ちになれる時間を作り出したいという思いが常にあります。」
幸田さんが時々に口にするのは、「お客様が」という言葉だ。この舞台を観てお客様が何を感じるのか、どんな気持ちで劇場を後にするのか、そのことを考えない時はないという。
「あるイタリア料理研究家の方のお料理をいただく機会があったんですが、一緒にテーブルを囲む方たちの心が柔らかくなりますように、幸せを届けられますように、と思いながら作る、とおっしゃるんです。ああ、舞台と同じだなって。何かを共有したいと思いながらつくりあげるものは、オペラでも料理でもみんな一緒なんだって感動しました。」
クラシックの演奏会に行くとしばしば見かける光景だが、終演後(もしくは休憩時間)に、口角泡を飛ばしながらその演奏の出来不出来について議論する人たちがいる。「あのパッセージが巧かった」とか「あそこのテンポは納得できない」とか、とかくクラシックはそうした「批評」を語る方がよい、とされがちだ。だが幸田さんは、「あそこが良かった、より、大好きな人に大好きって伝えたい、って思えるような演奏をしたい」という。私も、そんな風に思える演奏に出会えた時ほど幸せな気持ちになれる時はないと思う。そして、そういう演奏はいつまでも心に残り続ける。
「オペラ歌手であること」の原点
愚問だとわかってはいるものの、幸田さんに「なぜオペラ歌手になろうと思ったのか」という質問をぶつけてみた。
「二十歳でイタリアに2週間ほど滞在した時、初めてオペラと日常生活がリンクしていることを感じたんです。例えば、駅でカップルがこの世の終わりみたいに熱烈なキスをしながら別れを惜しんでいる。離れ離れになってしまうのかしら、と思って見ていたら次の電車に普通に乗って、ただ家に帰るだけだったのねって。あるいは、教会でマリア様に真剣にお祈りを捧げている人がたくさんいる。そんなふうに、舞台の上にしかないと思っていたものは、すべてイタリアの日常生活の中に溢れていることに気づきました。今、自分がなぜオペラ歌手をやっているのか、と考えると、その時の新鮮な気づきがあったからだと言えます。」
「すべては人の営みの中にある」と気づいた幸田さんは、それから、自分も舞台の上で「生きれば」いいのだ、と悟ったのだという。
オペラは超現実的な、自分たちの生活とはかけ離れたおとぎ話ではない。確かに、日常生活とオペラでは細かい作法などに違いはあるが、その「根っこ」は結局「人の営み」なのだ。幸田さんの舞台を観ると、いつも「自分にあった役を選んでいるな」と感じるのだが、実はそれは彼女がその役を自然に「生きて」いるからに他ならない。
オペラをもっと愛してもらうために
イタリアでローマ歌劇場やベッリーニ大劇場などに出演、その後ウィーン・フォルクスオーパー専属歌手としてウィーンに住んでいた幸田さん。本場ヨーロッパと日本では、オペラを取り巻く環境が違うことを指摘する。
「ウィーンでもローマでも、街を歩けばポスターが貼ってあり、毎日どこかでオペラをやっている。“今日暇だから、じゃあオペラでも観に行こうか”っていえる環境がある。でも日本だと、チケット代も高いですし、上演回数も多くない。まだまだオペラが身近ではないですよね。」
「だからこそ」と幸田さんは続ける。
「最初の入り口として、素直な解釈のトラディショナルなプロダクションをもっと上演する必要があるのではないでしょうか。ウィーンやベルリンなら、ここは伝統的な演目を上演する劇場、ここは前衛的な劇場、と、ある程度住み分けができている。でも日本はそうではありません。まずは、トラディショナルなものがいつでも観られる、という状況を作り、その上で実験的なもの、前衛的なものにという順番であるべきだと思うんです。」
こうした幸田さんの意見を「保守的」だと考える人もいるかもしれない。しかし、数々の舞台に出演してきたからこそ、誰よりも受け手の反応を肌身に感じている幸田さんのこの言葉には、真摯に耳を傾けたい。何より「お客様が幸せな気持ちになってもらえるように」というのが彼女の原点なのだ。
「“オペラってこんなに素敵だったの”と素直に感動できるような作品ならば、私自身、責任を持って発信できるのです」という一言に、プロの舞台人としての自負と自信を感じた。
音楽の奉仕者
実は私自身の幸田さんの第一印象は、「美しい声と美しい容姿の持ち主」。初めてお会いした時には、まるで物語のお姫様がそのまま舞台から降りてきたように思えた。しかし、お仕事をご一緒するうちにわかってきたのは、彼女の中にある、愚直なまでの「音楽への愛」だ。
オペラというのは、舞台上にいる歌手と、そして舞台の外側にいる実に多くの人たちの仕事がひとつになって出来上がっている。指揮者、オーケストラは言うに及ばず、装置を作る人、衣裳を作る人、字幕、照明、など、それぞれのジャンルのプロが集まって作り上げる「総合芸術」なのだ。「歌い手は、関わっているすべての人の“思い”を背負って舞台に立つんです」という幸田さん。「怖くないですか」とたずねると、こんな答えが返ってきた。
「それぞれのプロが、舞台のために周到に準備をしているところを目の当たりにすると、やはりみんな心の中に音楽への愛があるんだな、と感じます。その思いを伝えるのが、私の役目なんです。」
作り手の思いと受け手の思いを繋ぐ人。そして音楽を心から愛し、音楽で人を幸せにしたいと願う人。幸田浩子は、実は誰よりも真摯な「音楽への奉仕者」なのである。
幸田浩子(こうだひろこ) Hiroko Kouda
- 東京藝術大学首席卒業。同大学院、及びオペラ研修所修了後、ボローニャ、ウィーンに留学。
- 数々の国際コンクールで上位入賞後、欧州の主要歌劇場へ次々とデビュー。ローマ歌劇場、シュトゥットガルト州立劇場等大舞台で重要な役を演じ、オペラの母国で豊かな経験を積む。2000年には名門ウィーン・フォルクスオーパーと専属契約し、『魔笛』夜の女王、『ファルスタッフ』ナンネッタ等を演じる。
- 帰国後も様々な舞台に出演し、近年では新国立劇場『ホフマン物語』オランピア、びわ湖ホール『リゴレット』ジルダ、二期会『魔笛』パミーナで好評を博す。また、幸田を"かぐや姫"役に想定して指揮者沼尻竜典氏が作曲したオペラ『竹取物語』は、2014年の初演以来、2015年2月のハノイ公演、8月びわ湖ホールでの舞台上演日本初演と、いずれも絶賛された。
- その他主要オーケストラとの共演や全国各地でのリサイタルなどに加え、NHK「気ままにクラシック」での笑福亭笑瓶氏とのパーソナリティやBSフジの音楽&トーク番組「レシピ・アン」(毎週土曜午後6時30分)でのメインMCなど多彩な活動を展開。
- 2017年5月にはCDデビューから10年を迎えたのを記念し、初のベスト盤『幸田浩子 マイ・ベスト・セレクション』をリリース。 6月25日には紀尾井ホールでリサイタルが予定されている。
- 第14回五島記念文化賞オペラ新人賞、第38回エクソンモービル音楽賞洋楽部門奨励賞受賞。
- 第3代クルーズアンバサダー(クルーズ振興大使)。
- 二期会会員
【幸田浩子さん 出演情報】
東京二期会、愛知県芸術劇場、東京文化会館、iichiko総合文化センター、読売日本交響楽団、名古屋フィルハーモニー交響楽団 共同制作
《グラインドボーン音楽祭との提携公演》
- 〔東京〕東京文化会館 大ホール
- 2017年7月26日(水)18:00 29日(土)14:00
- 〔愛知〕愛知県芸術劇場 大ホール
- 2017年10月28日(土)14:00
- ご予約・お問い合わせ 二期会チケットセンター
- TEL 03-3796-1831
バロック・オペラ
ペルゴレージ作曲 歌劇『オリンピーアデ』(セミ・ステージ形式)
- 紀尾井ホール
- 2017年11月3日(金・祝)15:00 5日(日)15:00
- ご予約・お問い合わせ 紀尾井ホールチケットセンター
- TEL 03-3237-0061