音楽家の素顔(ポートレイト)

音楽ライター室田尚子と写真家伊藤竜太が、毎回1組の日本人クラシック・アーティストにインタビュー。写真と文章で、その素顔に迫ります。

第1回 誰よりも真摯な「音楽の奉仕者」 幸田浩子さん(ソプラノ)

f:id:classicportrait:20170605171043j:plain「日本を代表するソプラノ」のひとり、幸田浩子さん。その名前は、クラシック・ファンはもちろんのこと、広くお茶の間でも知られている。それは幸田さんが、NHK-FM「気ままにクラシック」やBSフジ「レシピ・アン」などテレビやラジオに出演する機会が多いことも関係しているだろう。また、クラシックの歌手としては、CDのリリースも多く、彼女の人気の高さがうかがえる。

お客様に幸せな気持ちで帰っていただきたい

 幸田さんの歌声を聴いていると、優しく包み込まれるような気持ちになる、という人は多い。それは何より幸田さん自身が、「どうしたらお客様に喜んでもらえるか」ということを第一に考える歌手であるからだ。

「私はとても単純な舞台人なので、音楽が自分の体の中を通ってお客様に届いていく、それだけでもう幸せを感じます。だからお客様にも幸せになっていただきたい。オペラを観た方が今よりもっと心が柔らかくなるような、そんな気持ちになれる時間を作り出したいという思いが常にあります。」

 幸田さんが時々に口にするのは、「お客様が」という言葉だ。この舞台を観てお客様が何を感じるのか、どんな気持ちで劇場を後にするのか、そのことを考えない時はないという。

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 「あるイタリア料理研究家の方のお料理をいただく機会があったんですが、一緒にテーブルを囲む方たちの心が柔らかくなりますように、幸せを届けられますように、と思いながら作る、とおっしゃるんです。ああ、舞台と同じだなって。何かを共有したいと思いながらつくりあげるものは、オペラでも料理でもみんな一緒なんだって感動しました。」

 クラシックの演奏会に行くとしばしば見かける光景だが、終演後(もしくは休憩時間)に、口角泡を飛ばしながらその演奏の出来不出来について議論する人たちがいる。「あのパッセージが巧かった」とか「あそこのテンポは納得できない」とか、とかくクラシックはそうした「批評」を語る方がよい、とされがちだ。だが幸田さんは、「あそこが良かった、より、大好きな人に大好きって伝えたい、って思えるような演奏をしたい」という。私も、そんな風に思える演奏に出会えた時ほど幸せな気持ちになれる時はないと思う。そして、そういう演奏はいつまでも心に残り続ける。

「オペラ歌手であること」の原点

 愚問だとわかってはいるものの、幸田さんに「なぜオペラ歌手になろうと思ったのか」という質問をぶつけてみた。

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 「二十歳でイタリアに2週間ほど滞在した時、初めてオペラと日常生活がリンクしていることを感じたんです。例えば、駅でカップルがこの世の終わりみたいに熱烈なキスをしながら別れを惜しんでいる。離れ離れになってしまうのかしら、と思って見ていたら次の電車に普通に乗って、ただ家に帰るだけだったのねって。あるいは、教会でマリア様に真剣にお祈りを捧げている人がたくさんいる。そんなふうに、舞台の上にしかないと思っていたものは、すべてイタリアの日常生活の中に溢れていることに気づきました。今、自分がなぜオペラ歌手をやっているのか、と考えると、その時の新鮮な気づきがあったからだと言えます。」

「すべては人の営みの中にある」と気づいた幸田さんは、それから、自分も舞台の上で「生きれば」いいのだ、と悟ったのだという。

 オペラは超現実的な、自分たちの生活とはかけ離れたおとぎ話ではない。確かに、日常生活とオペラでは細かい作法などに違いはあるが、その「根っこ」は結局「人の営み」なのだ。幸田さんの舞台を観ると、いつも「自分にあった役を選んでいるな」と感じるのだが、実はそれは彼女がその役を自然に「生きて」いるからに他ならない。

オペラをもっと愛してもらうために

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 イタリアでローマ歌劇場ベッリーニ大劇場などに出演、その後ウィーン・フォルクスオーパー専属歌手としてウィーンに住んでいた幸田さん。本場ヨーロッパと日本では、オペラを取り巻く環境が違うことを指摘する。

「ウィーンでもローマでも、街を歩けばポスターが貼ってあり、毎日どこかでオペラをやっている。“今日暇だから、じゃあオペラでも観に行こうか”っていえる環境がある。でも日本だと、チケット代も高いですし、上演回数も多くない。まだまだオペラが身近ではないですよね。」
「だからこそ」と幸田さんは続ける。

「最初の入り口として、素直な解釈のトラディショナルなプロダクションをもっと上演する必要があるのではないでしょうか。ウィーンやベルリンなら、ここは伝統的な演目を上演する劇場、ここは前衛的な劇場、と、ある程度住み分けができている。でも日本はそうではありません。まずは、トラディショナルなものがいつでも観られる、という状況を作り、その上で実験的なもの、前衛的なものにという順番であるべきだと思うんです。」

 こうした幸田さんの意見を「保守的」だと考える人もいるかもしれない。しかし、数々の舞台に出演してきたからこそ、誰よりも受け手の反応を肌身に感じている幸田さんのこの言葉には、真摯に耳を傾けたい。何より「お客様が幸せな気持ちになってもらえるように」というのが彼女の原点なのだ。

「“オペラってこんなに素敵だったの”と素直に感動できるような作品ならば、私自身、責任を持って発信できるのです」という一言に、プロの舞台人としての自負と自信を感じた。

音楽の奉仕者 

 実は私自身の幸田さんの第一印象は、「美しい声と美しい容姿の持ち主」。初めてお会いした時には、まるで物語のお姫様がそのまま舞台から降りてきたように思えた。しかし、お仕事をご一緒するうちにわかってきたのは、彼女の中にある、愚直なまでの「音楽への愛」だ。

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 オペラというのは、舞台上にいる歌手と、そして舞台の外側にいる実に多くの人たちの仕事がひとつになって出来上がっている。指揮者、オーケストラは言うに及ばず、装置を作る人、衣裳を作る人、字幕、照明、など、それぞれのジャンルのプロが集まって作り上げる「総合芸術」なのだ。「歌い手は、関わっているすべての人の“思い”を背負って舞台に立つんです」という幸田さん。「怖くないですか」とたずねると、こんな答えが返ってきた。

「それぞれのプロが、舞台のために周到に準備をしているところを目の当たりにすると、やはりみんな心の中に音楽への愛があるんだな、と感じます。その思いを伝えるのが、私の役目なんです。」

 作り手の思いと受け手の思いを繋ぐ人。そして音楽を心から愛し、音楽で人を幸せにしたいと願う人。幸田浩子は、実は誰よりも真摯な「音楽への奉仕者」なのである。

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幸田浩子(こうだひろこ) Hiroko Kouda

幸田浩子|日本コロムビア

幸田浩子さん 出演情報】

東京二期会愛知県芸術劇場東京文化会館iichiko総合文化センター読売日本交響楽団名古屋フィルハーモニー交響楽団 共同制作
グラインドボーン音楽祭との提携公演》

リヒャルト・シュトラウス作曲『ばらの騎士

 

バロック・オペラ
ペルゴレージ作曲 歌劇『オリンピーアデ』(セミ・ステージ形式)